3.<あねさま>の歴史

姉様人形の発祥や変遷を調べるとなると、過去の研究者による文献に頼るしか方法がありません。
政変や戦争などの大事件の記録は数多くありますが、庶民の生活に関する資料はほとんど残されていないのが現状だからです。
姉様人形を調査した研究者の著書や、熱心な郷土玩具のコレクターによる資料の多くは昭和15年〜20年代で途絶えており、
既に古書となったそれらは現在もはや入手困難です。
現在入手できる資料も、そうした昔の文献を参考に引用・掲載されたものが多いです。
このページでは、いろいろな資料を参考に自分なりにまとめていますが、ご参考になれば幸いです。



(1)あねさまの原型

あねさまはどうやって生まれたのでしょうか?
各地に残っている黍殻(きびがら)や、稲の切り株で作る姉様人形を見ても、
発端はおそらく手近にあった草などを使った、ごく素朴な玩具だったと考えられています。
<あねさま>とは、古くから頭の形をまねて、結ったり飾ったりして遊んだものが原型であると推測できます。

  
左:きびがらで作られた姉様(鳥取) 中央:きびがらで作られた姉様(静岡) 右:稲の切り株で作られた姉様(飛騨高山)※写真1

 
左右ともきびがらで作られた姉様(九州小倉)※写真2

今も静岡に残っている民芸品<おかんじゃけ>

竹の先を細かく裂いて叩いて麻糸のようにし、
女の子はこれで髪を結って遊び、
男の子は相撲の軍配にして遊んだと言われています。
姉様の原型の名残を残しています。

静岡 洞慶院の祭礼で売られています。※写真3

(2)ひな遊び・ひな祭りとあねさま遊びの関係

昔はあねさま遊びを<ひな遊び>と言い、あねさまのことを「ひな」「ひいなっこ」などと呼んだので、
今行われているひな祭りの「おひなさま」と混同されがちですが、

『今の世の女の児の常の遊びに、ひなさま事まま事などとて、紙びなを作り、
これは某かれ某など名をつけて、人によそへ、人家むつまじき体をまねびもて遊ぶにつゆたがわざる也、
今のやよひのひな遊びはかへりていにしへに似ず 』
『源氏物語』1
と、ひな遊びとは三月の節句のひな祭りのことではなく、普段のままごと遊びだったと述べられています。

但し、ひな祭りとあねさまが無関係だったのかというと、そうとも言い切れないものがあります。
菜の花で作られた<菜の花びな>は、昔、ひな人形を買えない貧しい子供達が、菜の花を顔に見立て、葉で衣装を作ったものです。
こうしたものは、ひな祭りに限らず、普段の遊びにも使われたと考えられています。
ひな人形の代用として、<菜の花びな>の他にも<姫瓜(ひめうり)><髪葛子(かづらこ)>などがありました。


髪葛子(かづらこ)の図
『守貞漫稿』(国立国会図書館蔵) ※写真4


菜の花びな
花を顔に見立て、葉っぱの着物に水引の帯を締め、松葉の太刀を差した。
西澤笛畝(てきほ)『雛百種』より※写真5

『骨董集』※2では『伊勢山田のあたりに古へより伝へて、女子平日、雛遊びに小米雛(こごめびな)とて五六分許りの紙びなを造り、
その衣服にするものをききといひ、巾一寸許長さ二寸許の小さき鳥の子などの紙に、丹青もて文様をいろどり、
或いは行成紙などを小さく裁て用ひ或はちいさき紅絹のきれなど添て衣領つきをととふるものもあり
(中略)全体、紙なり、頭は男女ともに紙ひねりなり』
と、姉様の一種である小米びなというものについて説明しています。

三重県山田地方に伝わる小米雛は、米を一粒白紙に包んで頭に見立てた高さ1.5cmほどの小さな紙雛です。
ひな祭りに飾る紙びなという形で、昔の姉様の姿が残されています。


小米雛(こごめびな)
三重県伊勢市二見町 ※写真6



(2)近世の姉様人形

垂れ髪や結び髪が主流であった時代から、江戸初期になると、
歌舞伎や遊女達によって、兵庫・島田・勝山など、日本独自の美しい髪型が生み出されました。
安政の頃(1772〜1789)になると、階級によって髪型も多種多様になり、複雑な変化を見せるようになります。
『守貞漫稿』※3には「今世の児女平日の遊びに白紙を筆軸に巻て之を押皺め、其半ばを開き軸を抜き去り、
皺紙の筒なる中に紙よりを通し輪の如くして之を結ぶ。其輪乃ち鬢髱となり、
紙よりを以て結び合わせたる所には、別の白紙を竪長に折て輪の内外に之を当て下にて又是も結び、
其白紙の所下は顔也。上は前髪となる。開きたる所を島田髷或いは丸髷にも之を結ぶ。(中略)
江戸先年は髷のみ皺紙を用ひ、鬢髱紙を切抜いて之を造ると云へり。
昔の鬢髱は扁なる故也。又今世江戸も自製することあれども或いは小賈之を造りて群衆の路頭に売る。
必ず背面を向けて立ち並び置けり。(中略)背面実に美人の如し。 」
と、<あねさま>の作り方が詳しく記載されています。
庶民に和紙が広まると、紙に皺を寄せて髪型を作り、現在見られるような姉様人形がさかんに作られるようになりました。
幕府の奥女中などが、手すさびに作っていた<あねさま>の作り方は、そっくりそのまま近世に伝えられています。


首だけの簡素なあねさま(和歌山)※写真7



(3)各地に伝わった現代の姉様

参勤交代などで、江戸から手土産として持ち出された<あねさま>が各地に伝わり、
また、 幕府が倒れた後、多くの氏族が各地に移住したために<あねさま>が全国に広まったとも言われています。
姉様人形は、紙と糊とハサミがあれば、上手下手は別として誰でも作ることが出来ます。
露天商の女房達が作って売れば、たちまち郷土玩具として出回るようになりました。
作るのに熟練した技術や設備が必要なものは、一度作られ出すとよほどのことがない限り廃絶することはありませんが、
姉様人形は誰でも作れる手軽さの反面、紙という素材も相まって寿命も短く、
せっかく世に出ても、はかなく姿を消すものが多かったのではないかと思われます。
ここが、現存している他の郷土玩具と異なり、郷土に定着し得なかった点なのではないかと考えられます。

明治期に入ると、美しい色刷りの千代紙が生産されるようになり、各地で
あねさまが作られるようになりますが、
新しく登場したブリキやセルロイドの玩具によって、ほとんどが廃絶し、
多くは昭和の初めから戦前の頃までに姿を消してしまいました。

各地の姉様人形のうち、古式ゆかしいもっとも<あねさま>らしい姿を残しているのは、東京の<あねさま>です。
すなわち、白紙(半紙)を縮らせて、顔は白紙を細く折ったものを鬢髱の輪にかけ、千代紙の着物を着せたもの、
売り物であってもなくとも、全国のほとんどの姉様人形は、この東京式の作り方が基本となっています。

一方、民芸品としてその土地に定着した姉様人形もあり、それらは独自の発展を遂げます。
商品・玩具として技法も熟練し、
髪は黒く、顔もしっかり芯が入り形が整えられ、
美しい趣のある目鼻立ちが描かれた完成されたデザインのものが多く見受けられます。

参考文献
※1『源氏物語』紫式部(長保3年)
※2『骨董集』岩瀬京伝著(文化10年)
※3『守貞漫稿』喜多川守貞著(嘉永6年)
『姉様』日本郷土人形研究会著(平成8年発行)

『江戸あねさま』武藤徳子著「あねさま生い立ち考」稲垣武雄(マコー社 昭和47年発行)

写真提供
※写真1『江戸あねさま』武藤徳子著「あねさま生い立ち考」稲垣武雄(マコー社 昭和47年発行)
※写真2 日本土鈴館/岐阜県「鈴を振り振り」
※写真3 おかんじゃけ 静岡洞慶院
※4『守貞漫稿』喜多川守貞著(嘉永6年)『姉さま人形』ハンドクラフトシリーズ(株式会社グラフ社 昭和50年発行)より
※写真5『雛百種』西澤笛畝 大正4年出版された和綴じ画集より(2002年季刊銀花129号)
※写真6 浜参宮だより 浜参宮観察隊事務局/三重県伊勢市二見町 http://hamasanguu.seesaa.net/
※写真7『江戸
あねさま』武藤徳子著「あねさま生い立ち考」稲垣武雄(マコー社 昭和47年発行)

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